先日、ふと思い立って昔描いた原稿を古い順にいくつか読みました。
読んだのは「お父さんはlv1シリーズ」「派遣勇者」「遺跡の番人」
「タイムスリップワクチン」など2007-2010ごろの作品です。
この作品群は右も左もわからずとにかく手探りで書いていたので、下手なんですが
初期になるほど技術や人目を気にせず、のびのびと好きに書けてていいなあと思いました。
そして結構キャラクター中心の漫画で、面白かった。シナリオ術などの余計な知識が無かったからでしょうか。
現在のぼくも見習いたいと思います。
そして、本題なのですが、この時点で
妖護学級ハヴリダにでてくる人物像がすでに揃ってた、という事に気づいて驚きました。
例をあげますと
「お父さんはLv1シリーズ」→ヒナコ(セルジュ) ひよこ(ルウナ先生)
「派遣勇者」→ウィル(マギハ) ヒイロ(セルジュ)
「遺跡の番人」→四角いロボ(マーク) 番人の少女(セルジュ)
「タイムスリップワクチン」→エレコ(ステラ)サイジ(マギハ)
まあ、こんな感じで、やっぱり、作者の中にあるキャラクター人格って
そんなにいくつも無くて、最初から変わらないのかもしれないと思いました。
ただひとつだけ、大きく変わっているのは、お父さんシリーズ。
当時はヒナコがボケで、ひよこがツッコミなんですよね。
ヒナコが非常識な貧乏ネタやお父さんネタで引っ掻き回して、常識人のひよこがツッコむ。
この二人、今だったらルウナ先生がボケてセルジュがツッコんでいる事のほうが多い。
無邪気にボケ倒していたヒナコちゃんが、いつのまにかギスギスしたツッコミキャラになってしまった…
そしてそれを補うようにひよこちゃんが天然ボケで聖人のようになっていった模様。
これには僕自身の挫折が関係しているように思えました。
僕はアイマス同人をやるまでかなりカオスに活動してきてて、ブラックジョークをブラックだとも知らず
意気揚々と自信満々で生きていたのです。たまに「おもんない、悪趣味」ってクソコメしてくる人がいたら
ブロックして終わりだったわけです。
テキトーに面白いことをやって、理解してくれる人を相手に、笑いをとって楽しく暮らしてきたのです。
人生は、それでいいんだと思ってました。
ところが紙媒体の同人を始めると状況が一変しました。
あの世界って、色んな人と付き合わなくちゃいけない。
来る者拒まず去る者追わず、という自由がないんですよね。
お友達になりましょう!と声をかけてくれる人が大勢いる反面で
お友達として利用価値ない、ってなったら
嫌がらせのターゲットにして遊ぶ人がいたりするんです。
飲み会とかいっても二次会は人の悪口ばっかで…
一緒になって悪口言わないと、自分が悪口いわれるという…
で、まあ、カオスな僕は結構うざがられて、色々嫌な目にあったりしたわけです。
本が売れてる、というのもまたうざがられるので、漫画が面白ければ面白いほど嫌われる。
それまでの人生の歩き方では、全く立ち行かなくなってしまった。
つまり、「好きなこと、面白いことをがんばってやってたら、褒めてもらえる。」
という自己肯定ルーチンが破綻した僕は、大いなる挫折を経験しました。
まあ結局のところ、同人誌をやめたらスッキリして今は昔のように楽しくやれてますが
一生懸命がんばっても、僕のことを嫌う人がいる、ありのままでは分かり合えない人もいる…
という経験は、今も心に暗い影を落としています。
そういった数年の時が流れて、ヒナコが「大人」になろうとした姿がセルジュなのかもしれません。
セルジュの攻撃的で孤独な性格は、「ありのままのヒナコ」を守ろうとしてのことですし
ひよこはヒナコに足りない部分を補うキャラなので、相対的にルウナ先生になったのでした。
このように考えると、ヒナコ(セルジュ)には、なんだか悪いことをした気がしてきます。
いつか、セルジュを憎しみから開放してあげて
また昔みたいな「ヒナコ」を、自由に描いてあげたいなと思いました。
と、ここまで書いて気づいたのですが、2012年に書いた
「アプリちゃん」の人物像はヒナコにそっくりなので、
もしかするとヒナコは居なくなったわけではなく
アプリちゃんとセルジュに分岐したのかもしれません。
ヒナコの暗黒面(セルジュ)を発見するきっかけになったのだとしたら
同人誌即売会での経験も、悪くなかったのかもしれませんね。