公園はジャングルだ。僕らはまるで探検隊だった。子どもたちとの冒険で得た感動は何ものにも代えがたい。彼らの瞳にはビー玉が本物の宝石のように写っていたし、草むらに財宝を隠す僕は神のごとく崇拝されていた。
でも、ジャングルには恐ろしい怪物や、我々の絆を引き裂く数々の困難が待ち受けているのだ。シリーズ最終章となる本記事では、そのことについて語る。
突如として公園に現れた怪しい男。
それが、ももにい(ぼく)の実際のところであろう。精一杯身なりを整え、漫画家であるという身分を明かし、子どもたちと気さくに会話をし、保護者へ挨拶してまわり、イメージアップに努めていたが怪しいのは仕方ない。それが嫌なら役所のイベントなどとして形式張ったものにならざるをえないが、それだと小回りがきかなくて面白くないだろう。「日本の伝統文化 あやとり講座 日曜日に開催」楽しんでいる人には悪いが、刺激が足りない。既存の枠組みで、いちいち許可を取ってやっていたら、そのへんが限界になる。
ビー玉遊びの概要については、これまでもブログで述べてきた。
公園にビー玉をばらまき、子どもたちに集めさせ、その数に応じてガチャを回せるという射幸心をくすぐるゲームシステム。
(景品代で主催者側のお金がじゃぶじゃぶ溶けていく欠陥ソシャゲー)
そんなものが実現できていたのは、僕が一人で考えて、面白がって勝手にやっていたからだ。
大赤字だったが、同人ゲーム制作サークルみたいな感覚で楽しんでいた。
プレイヤーである子どもたちの笑顔を間近で見られるのも最高だった。
さて冒頭で、公園はジャングルであると述べた。僕は退屈な文明社会をあとにして、ジャングル探検に繰り出したのだ。
文明社会による支援をアテにしない以上、怪しい怪しいと言われながら、様々なトラブルに独力で対処していくのは、仕方がないことなのだ。
探検隊の仲間は子どもたちだけ。
頼れる大人は、自分だけである。
ビー玉遊びは、そりゃーもう最初はお祭り騒ぎだった。何十人という子どもたちが公園に集まってて、僕もめちゃくちゃ楽しかった。
3ヶ月くらいでブームはピークアウトしたけど、カルチャーの熱が冷めないようにだましだまし創意工夫をしていくのも面白かった。
1年目は人気に比例してカリスマ性もすごかったので、変な評判がたつようなこともなく、忙しいながら勢い任せに結構どうにかなっていた。
ただ、冬休みを挟んで、リクエストに応じて復帰した2年目、さすがに人気に陰りがでてくると、あれやこれや問題が表面化してくる。
少しでも権威付けするために社会福祉協議会に個人ボランティア登録などもしてみたが、しばらくすると活動内容などを丁寧に説明して味方につけた職員さんは異動か退職してしまって、協議会は頼りにならなくなった。
そんな状況で、深刻化していった、というか。究極的にはこれに尽きるという問題が
・プレイヤーの「民度」を維持する難しさ
「公園の子どもたちがマナーを守って楽しく遊べているか」の度合い。
僕はこれをわかりやすく「民度」と呼んでいる。子どもたちは国民に、ビー玉カルチャーは国家に例えられる。
民度が下がると子ども同士で喧嘩をしたり、あろうことか、親に反抗して甘えるような形で僕に喧嘩を売る子どもが増える。
反社会的な国民が増え、社会情勢が悪化してくる。
人口減少は問題にならなかったが、民度の低下は深刻な問題だった。
民度を上げるにはゲーム全体の楽しさを盛り上げていき、「国民全体の幸福感」を経済のように底上げするのが手っ取り早いのだが、やがてそれも限界が来た。
そうなると、下がりゆく民度の中で、僕の指導者としてのカリスマ性も低下していく。「ゲームを楽しむ」という部分以外の、治安維持活動にリソースを奪われる、終わりなき政情不安、消耗戦である。
ゲームマスターとして風紀の引き締めを図る僕の対応は独裁色を帯び、○○禁止のようなルールが増えて自由がなくなり、ますます民心が離れる。
子どもたちがゲームに飽きてくると、不良が増える。これまで大人しかったマイルドヤンキーが不良化したり、親衛隊のように僕の周りを固めていた「陽気」な子どもたちがいなくなると、場の明るい雰囲気に退けられてこれまで見かけなかった、新顔の不良も公園に姿を見せるようになってくる。
ほとんどの子は、行いに応じて叱ってやったり褒めてやったりすれば、良い方向に導くことができた。しかし、極端な不良というのは大人の言うことを聞かない。また、困ったことに、褒めてやっても意味がない。叱ってやっても意味がない。なぜなのか?不思議に思うかもしれないが、それが不良というものなのだ。
信賞必罰という言葉がある。いいことをしたら褒める、わるいことをしたら罰をあたえる。たいていの人は無意識にそのような秩序を当然のものとして受け入れて生きているわけだが…
残念ながら、そういうモラルが守られていない家庭も、社会には存在する。
「親」は気まぐれに嘘つくし、機嫌が悪いと暴力ふるうし、子どもに対して服従を強いる。戯れに、子どもの自尊心を傷つけるようなこともいう。そういう環境で育ってきた子は、考え方、世の中の見え方が、普通の人とは根本的に異なっている場合がある。
人間関係は搾取するかされるかのゼロサムゲーム。人とWin-Winの友好的関係を結べない。「みんなで楽しく遊ぶルール」を覚えるよりも、「他人に損させて楽しむズル」を考える。同級生とは仲良くできないし、自分より弱い、小さい子をいじめたりする。
良いことをしたとき、褒めると危ない。懐かれるほど問題行動は激しくなる。彼らにとって、親にされてきた「家庭内暴力」が愛情表現なのだ。恩返しとして嫌がらせが始まる。
一番厄介なのは、叱るとき。そういう子はネグレクトされているので、極度の寂しがり。不良の攻撃性は、誰かに少しでも構ってもらいたい、自分の存在に気づいてほしいという寂しさから来ている。
過酷な環境で生きてきた子が、問題をおこして、僕に叱られたとしよう。すると彼らは「罰」ではなく「反応を引き出せる条件」を見つけたと考える。叱られるほど「構ってもらえた」ことを喜び、態度を改めるどころか、ますます悪い事を繰り返すのだ。何かを嫌がって叱る事で、弱みを見せてはいけない。
褒めても叱っても、相手をする事はいい結果につながらない。可哀想だが完全に存在を無視して、「餌をもらうチャンスはない」と示してやり過ごすしかない。
不良は人食いの狼か。
それとも、泣き続ける赤子だろうか。
泣いても叫んでも助けてもらえなかった赤子が、やり場のない怒りと悲しみを爆発させて泣き続けている。
ときには大人になっても、ずっと。それが不良という人種の心の仕組みなのだろうと僕は悟った。
彼らが「罰」を受け大人しくなる瞬間は、圧倒的な暴力を振るわれ、恐怖で屈服させられたときだけであろう。
まるでサーカスの獣だ。
そのような過酷な対応ができるわけがないし、やりたくもない。
ごく一部ではあったが、そのような子たちは、ビー玉探検隊の構成員としてはもっぱら不適当である。育った環境に恵まれなかった彼らが更生できるよう手助けはした。何度もやり直すチャンスを与え、本当に話せば長くなる努力を精一杯した。ちゃんと向き合っていたら良い子になる本当は優しいヤンキーも多かったし、軽くヤンチャを叱る程度のやり取りは親子のようで楽しい部分でもあった。
が、…結局、限度というものがあり、どうしても言うことを聞かない不穏分子はコミュニティから追放するという対処を行わざるを得ない。
地域の学校にも相談してみたが、「放課後の事には関知しない」の一点張りであった。先生が不良を注意すると、不良は学校側を相手取って暴れだすから、刺激したくないのかもしれない。無責任な話ではあるが、それはそれで、僕も干渉を受けずに済むので文句はないが…
こうなってくると、ビー玉で遊んでいる他の子たちを守るためにも、問題児は出入り禁止にするしか方法がない。ジャングルでは厳しい判断をくださねばならぬときもある。しかし、これは一般的な駄菓子屋などでも同じだろう。迷惑行為を繰り返せば出入り禁止は当たり前。一般常識の話だが。そんなものは、我々人間が勝手に決めた社会のルールにすぎない。
ジャングルへようこそ。
ここでは、常識なんか無意味だ。
やむを得ず、僕は然るべき対応をしていたわけだが、…「問題児の親」は、同じく問題を抱えていることが多い。子の問題行動を注意したりすると、親が「うちの子をイジメたな!?」なんて怒鳴り込んできたりする事もあった。血は争えぬ。本当に厄介なのはモンスターの親、モンスターペアレントだ。
なんだかんだ相手も大人である。誠実な態度で経緯を説明したら納得して帰ってくれる場合も多かった。しかし、ときには、そもそも全くの勘違い、被害妄想の思い込みで怒鳴り込んできて、勢い任せに僕を罵るものだけど、途中から自分が悪いのが分かってるのに、ゴメンナサイが言えなくて振り上げた拳を下せなくなって、そのままあっちこっちで誹謗中傷を続ける不器用な人もいた。
僕の所持品から万引き行為を働いた子の母親が、自分の責任になると思いつめたのか、先手を取ってこちらを悪者にしようとして、言いがかりをつけて、活動そのものをやめさせようと詰めかけてきたことなどもあった。
彼らは威圧的だが、どこか臆病で、自分の弱さを隠そうとするかのように、攻撃的な人たちだった。まるで、漫画「闇金ウシジマくん」に出てくるキャラクターのように危ない雰囲気の人たちだ。
公園には、そのような野生の生き物が数多く現れ、そのたびに説得を試みたり、喧嘩別れをしたりしたのだった。警察も学校も、誰も助けてくれない。頼れるのは自分だけだ。
ジャングルこえー。
僕はこの冒険で、「ももにい」でないときの自分が「文明社会」に守られていたことを悟った。
僕はしがらみをとっぱらって、不審者スレスレの状態で、型破りで面白くて非常識なことをやっていた。
価格設定による客層の選別や、社会的な枠組みを頼ることをせず、世間の評判なんか無視して、「ビー玉遊び」なる新しいボランティア活動を立ち上げて、見返りを求めず無料で見ず知らずの児童・保護者と関わったらどうなるか。
公園はジャングルであることを思い知る事になる。
また、ここに上げたような極端な例でなくとも、無料で子ども達を遊ばせる僕の道楽を理解できず、何らかの裏があると思い込んで、疑心暗鬼から活動を妨害する保護者もいた。僕に話しかけて、目的や素性や人柄などを確かめるつもりもないらしい。なので、「子どもに悪口を吹き込む」「誰かの嫌がらせに荷担する」という形で邪魔してくる。これは活動形態が「僕のいない場所で悪評をたてる主婦」とかなので、対応するにしても限界があった。理解ある保護者の方に事情を説明してフォローしてもらったりしていたが、焼け石に水。聞こえないフリで我慢するしかなかった。
これには一見実害は無いが、放置しておくと、評判が下がる。そうなるとますます文明社会の庇護を受けにくくなり、「ジャングル度」が上昇、けものフレンズたちが凶暴化して危険なのである。頭の痛い問題だった。
獰猛な野生動物とのバトルもやばかったけど、以前紹介した「園芸ジジイ」なんかは、ジャングル先住民の首狩り族かな。
ヨソモノ コロス。ジャングル ノ オキテ。
そういえば、近所の学童保育施設(現在は閉鎖)の職員が、「この公園はうちで使ってるから出て行け」と、縄張りを主張してきた事もあった。公園は公共の場所だ。違法な要求は謹んでお断りした。
公園ではたくさんの外敵に囲まれていて、子どもたちと遊ぶのは楽しいながらも、常に一定の精神的ストレスに晒されていた。
今にして思うと、ノイローゼ気味だったが、なんとか踏ん張っていた。
「仲間の、子どもたちのために」
そのような信念だけが、僕を強くしていた。
…こんな経験することって、普通に生きててある?客観的に見るならば、面白い現象だ。僕は喧嘩なんかしないタイプだ。嫌いなヤツがいたら、黙って冷たい態度をとって、距離を置く。そのほうが利口だからだ。
しかしジャングルは、僕が子どもたちを置き去りにして逃げ出すことを許さなかったので、脅威に立ち向かうという、特殊な体験をもたらしてくれた。ときには辛い思いもしたが、漫画家として貴重な人生経験になった。
僕はこの冒険で、たくさんの教訓を得た。知らない人間を知った。子どもたちと友達になった。おっかなびっくり面白がってデータを集めているような感覚もあったかもしれない。今では大自然の恵みに感謝しながら、創作の糧としている。
さて、ここまで紹介したのはジャングルで遭遇した生き物たちとの戦い。最後にひとつだけ紹介したいのが、「教頭折れた事件」である。
あるとき、僕を誹謗中傷していた一人のおじさんが、小学校にしつこくクレームをいれた。子どもたちに、ビー玉遊びを禁止させろと。僕に対する嫌がらせだ。当然、要求は却下される。学校は放課後のことには関知しない。全くのお門違いである。が、その人は納得せず、何度も何度も学校に電話をして、ついには担任教師をノイローゼに追い込んだらしい。すると教頭が折れて、担任に許可を出し「ビー玉は禁止です」と朝の会で言わせ、おじさんを納得させたらしい…という事件。らしいらしいというのは、伝え聞いた話なので真相はよくわからない。
社会福祉協議会から、「学校からあなたの活動をやめさせるように圧力をかけられてこういう経緯を説明されているけど、うちそういう立場じゃないから困ってて…」という謎の相談がきたり、「朝の会でこういうことがあったけど、ほんと?」という話を子どもたちから聞かされ、僕は事件が「あったらしい」ことを数ヶ月遅れで知った。
正直ぼくとしては、もうコロナ自粛で活動辞めてたし、「ももにい」の立場を守る必要はなかったので、どうでもよかった。ただ、今まで放課後のことに関知しないの一点張りで不良を暴れさせていた学校側が、誹謗中傷に肩入れして、一緒になって僕を悪者にしているとなると、流石に納得がいかない。「ジャングルの生き物たち」がメチャクチャなのは自然の摂理であるとしても、社会的な責任ある公務員の先生に同レベルのことをされちゃ、納税者として納得しかねる。学校が「お墨付き」を与えたことで、おじさんの行動がエスカレートしても困る。
社会福祉協議会に圧力をかけてきたという教頭。おそらくこの人がしつこいクレームに折れて、「ももにい」を悪者にすることで丸く収めようという悪巧みをしているのかなと思われた。まあ、別に、今更撤回しろとまでは言わない。謝れとも言わない。僕も活動中あれこれ学校側には心配をかけたし、できる限り協力したいという感謝の気持ちもあった。ただ、この教頭がルールを逸脱した対応をしているのがわかった以上、僕だけ蚊帳の外で話を進める事を今後は止めるように注意勧告をし、実態を把握する必要があった。というわけで全ての真相を確かめるためにも、学校に電話してみた。
そしたらもう全然話を聞いてもらえなくてビックリした。
やたら早口で喋るオタクみたいな教頭は、完全に僕の人権を剥奪するつもりだった。担任の教師に事実関係を確認すらせず「そんな事実は無い」と断言し、オマエガワルイ!!ガッコウハカンケイナイ!!って感じで取り付く島もない。終始こちらをバカにした態度で、説明を求める僕を悪質クレーマー扱いして、この先は会話を録音するなどと脅し始めた。いやいやあんた、社会福祉協議会に変な電話しとるがな。責任投げ出して折れちゃって、一般市民にめっちゃ迷惑かけとるがな。録音したら困るのはそっちのほうだろう。
彼はもう必死で、自己保身に走っちゃって、パニックを起こしてる様子だった。まあ、誹謗中傷してたおじさんは仮にも生徒の親で、教頭は「保護者を納得」させる必要があり、担任教師も守ってあげなきゃいけない板挟みの状況で、部外者である僕一人、不審者ってことにしてしまえば、少なくとも彼の周囲では一件落着となるわけで、しかもすでに「やることやっちゃってる」ので、後には引けない。もみ消すには「ももにい」を泣き寝入りさせて撃退するしか無いって精神状態なんだろうけど…でも、僕は別に何かの要求をしているわけでもないんだし、もうちょっと落ち着いて話を聞いて、適当に機嫌取ったりしたらよかったんじゃないの?やり方が下手すぎない?
彼の対応は、「ももにい」を怒らせてしまった。
僕は言ってやった。「学校は関知しないって言ってますけど、社会福祉協議会に圧力かけてますよね。あなたのやっていることはダブルスタンダードですよ」そしたら教頭は、急に口ごもって、大人しくなった。どうやら彼はあまり深く考えずに、その場しのぎの対応を繰り返していたが、自分の行動に辻褄があっていないことに気づいていなかったらしい。
僕はてっきり、圧倒的な政治権力、陰謀めいた策略などを背景にした「巨悪」みたいなのを想像して身構えていたが、拍子抜けだった。昔の偉い人が言った通り、「悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る」のだ。急に彼が哀れになって、今後同じ過ちを犯すことが無いよう注意した上で、その場は許してやった。
けど、あとからやっぱり、大人しくなりはしたが、最後まで謝らなかった彼の態度を思い出すと腹が立ってきた。こいつは教頭先生なんだから、文明社会のルールというものを教育してやる必要があるなと思った。
彼が職務上のルール違反を犯していることを、もっと上位の管理職の人に告発してやればいいのではないか。どうせ校長はグルか、部下をコントロールできてないわけだから頼りにならない。だからこそ、教頭は自分を無敵だと思って調子に乗っていたんだろう。
というわけで、色んなところに電話をかけて、さらに上。教育委員会の地域責任者の人を探し出して、事の次第をチクってやった。元教師っぽい口ぶりだったので、教員の出世コースで教育委員会に入った人だと思う。その方はたいへん知的で話しやすく、お世話になった。僕のことも慰めてくれた。その後のことは知らないけれど、仮に活動を続けていたとしても、不当な圧力に屈する必要は無かっただろう。「文明社会を乗りこなした感」を得た僕の心は満足した。
以上が「教頭折れた事件」の顛末である。
ジャングルでは野生動物から自分の身を守らなければならないが、極限状況においては、自分だけ助かるために他人を犠牲にする人間もいる。教頭の取った行動は、つまりそういうことだ。まぁ…そもそも僕というイレギュラーが存在しなければ、教頭が「ジャングル」で人間性を試される事は無かったわけで、ある意味、彼は気の毒な立場だ。
ひょっとすると…ただの公園をジャングルにしてしまった「ももにい」こそが、もっとも恐ろしい獣だったという見方もできる。
怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。
ジャングルをのぞく時、ジャングルもまたこちらをのぞいているのだ。
ももニーチェ
そこまで気にしててもしょーがないだろって感じではある。法律やモラルを守って活動していても、新しいことをやれば、新しい問題が発生するのは避けられない。一番悪いのは、社会のルールを守ろうとしない一部の人々であって、僕や子どもたちは被害者だ。
それでも、結果的に世間をお騒がせしてしまった面があったという点については反省している。
あれこれ振り返っていると長くなってしまった。
1年目、2年目と続けたが、3年目でコロナ自粛に差し掛かってしまって、お開きとなった。僕も連載で忙しくなっていたので、ちょうど良いタイミングだった。
楽しい思い出もたくさんあるが、苦労も多かった。
気がついたら周りがジャングルだったので無我夢中で頑張ったけど、
パンデミックが収束しても、わざわざ足を踏み入れる事はないだろうなというのが正直な感想だ。
一緒に遊んでいた子どもたちも中学生や高校生になった。
公園の財宝伝説を知る者も今は少ない。
「ももにい」の苦労なんて知らず無邪気に遊んでいた子どもたち。
ビー玉が彼らの良き思い出になったのであれば、それがせめてもの慰めである。
おわり