演劇、映画、漫画などの創作には「第4の壁」という概念がある。物語の登場人物と観客との間には透明な壁があり、劇中世界からは観客が見えない。第4の壁とは、現実と空想を隔てる壁のことだ。(ときどき観客に話しかけるキャラクターがいたりして、「第4の壁を破る」などと表現したりするが、基本的に邪道とされる)これは本来、マジックミラーのように物語世界からみた現実世界を一方的に遮るものだが、実は、「観客からみた第4の壁」も存在しているのではないかと気づいたので記事にしてみた。
2022年から続くロシアによるウクライナ侵攻では戦場にドローンが投入され、戦果を報告する両軍によって、戦争が実況中継されている。そして、ドローン攻撃映像にはハードなダンスミュージックが付き物で、映画のワンシーンのように演出される。その状況に対して、“日本の自衛隊が戦果報告で同じ事をやったら「ヤシマ作戦」が使われるだろう”という書き込みを見て、確かにその通りだし盛り上がりそうだけど「うわっキモ!」って思った。謎の生理的嫌悪感の正体について考えてみた。
ヤシマ作戦…エヴァの音楽は僕も大好きだ。しかしこれは「おはなし」の中の出来事であって、現実ではない。その音楽を本当に人が死んだりする戦争のプロパガンダで使うことは、不謹慎というか…なんだか気持ち悪いと思う。どうやらファン心理として「第四の壁」を無意識に大事にしていて、現実と空想を混同する行為に対しては嫌悪感が働くのではないかと思った。この感情は何のためにあるのか?
僕の考えた仮説はこうだ。もしこの嫌悪感がなければ、現実と空想の区別がつきにくくなって、子どもがごっこ遊びでテンション上がるような感覚で、大人が本物の殺し合いをするようになってしまう。戦争にならずともカルト的な狂信にあてられて「来月には神様が迎えに来るから」といって生活基盤の維持を投げ出してしまったり、現実と空想の区別がつかなくなることへのリスクは計り知れない。きっとそういう人類もいたし今もいるのだろう。彼らは成功者になれば英雄や聖者などと呼ばれるだろうが、淘汰圧が働く。種全体からみれば少数派になるはずだ。人間は知能を発達させるとともに「おはなし」を空想するようになったが、同時に現実と空想の混同が問題になったはず。よって、混同に対する直感的嫌悪感を持つ者が多く生き延び、我々の先祖となった。「第4の壁」の獲得である。
なお、同時に、空想は人類を地球最強の生物に押し上げた。「通貨」や「宗教」や「国家」といった空想は人間の頭の中だけに存在する「おはなし」だが、空想は人類を数十億の巨大な群体にした(空想の力についての話はサピエンス全史がオススメ)この一方で、国家や宗教(おはなし)のために奉仕しすぎた個体は早めに死んで自然淘汰されたりもした。空想と現実、この2つをケースバイケースで使い分ける「第4の壁」は、2つの車輪をつなぐシャフト、あるいは安全ブレーキとして、人類の繁栄に貢献してきたのであろう。
人間の脳は、「おはなし」を第4の壁の中に閉じ込めることで、心の支えにしたり、娯楽として楽しみながら実際の人生とは別モノとして一線を引く無意識のバランス感覚を進化させてきたのかもしれない。カルト宗教や過激派、陰謀論の類は、この壁を破壊して人間を「おはなし」の世界に取り込もうとする。その先に待ち受ける運命が身の破滅であることは言うまでもない。第4の壁、今日も僕たちを守ってくれてありがとう。
以上が僕の考えた「第4の壁仮説」であるが、次のような考え方もできると思う。我々の文明社会さえ「おはなし」の一種なのだとしたら、実は第4の壁は「現実↔空想」を隔てる壁というよりかは「おはなし」と「おはなし」を隔てる壁なのではないか?
別々の種類の「おはなし」を混ぜたら、拒絶反応が起きる。例えば、エヴァの世界に突然、ガンダムに乗ったアムロ・レイが現れて使徒迎撃に加勢したらどうなるだろうか。「スーパーロボット大戦」というゲームがあるくらいなので結構面白いと思うが、主人公のシンジくんがエヴァに乗るとか乗らないとかゴネてるストーリーは興ざめになる。お祭りコンテンツとしては成立していても、「おはなし」は崩壊している。これはロボットSFアニメ同士の合体だからまだマシなほうで、エヴァに乗りたくないからって、生身のシンジくんが激しい修行の末に肉弾戦で使徒をやっつけたり、ドラゴンボールの悟空みたいな謎の男がどこからか現れて加勢したりしたら、まあそれはそれでワンパンマンみたいで面白そうではあるのだが、エヴァの「おはなし」は台無しだ。
このような設定の拒絶反応は、新しいオリジナル作品の初期設定を考える際にも参考となる。極端に関係性がない設定(おはなし)を共存させるのは難しい。別ジャンルのフィクションを2、3個くらい雑に合体させてみればわかるが一発でおかしくなる。「AIロボットと武士の怨霊と異世界エルフが三角関係の恋に落ちる話」とか。サメ映画みたいにわざとやるギャグ作品もあるけど、「おはなし」は面白くない。
逆に、面白いウソてんこ盛りなのに上手く噛み合う作品は強くなる。例えばSPY×FAMILYが面白いのは「スパイ、殺し屋、エスパーが任務で家族になる」という設定に無理がなかったからだ。スパイ、殺し屋、エスパーという主張の強い設定たちが、疑似家族という根っこで「おはなし」の壁を壊すことなく共存している所にアイデアの妙があると思う。
それ以外に悪い例として「遠い宇宙の地球外文明の日常ドタバタ下町コメディ」とかは、多分面白くならない。宇宙と日常は「おはなし」が遠すぎるから。ところが、状況設定をニューヨークのダウンタウンに集まってきた不法移民の宇宙人という設定でまとめたらメン・イン・ブラックが成立する。宇宙人をアメリカ移民に当てはめるというアイデアで、スターウォーズみたいに遠い星々の話だった宇宙人の生活を、身近な下町コメディみたいに描写できたわけである。
「おはなし」にはそれぞれ「第4の壁」が存在しており、それを壊してしまうと「おはなし」も壊れてしまう。「おはなし」を壊さないように、いろんな面白さを詰め込めるシンプルかつエレガントな「第4の壁」を見つけるのが作家の仕事なのかもしれない…というおはなしだったのサ。